2024年4月4日〜6日、桜満開の江戸へと参勤交代して参りました。
我々にとっては、浄土宗公式YouTubeチャンネル『浄土宗からのおやすみなさい』シリーズの撮影ロケでお邪魔して以来、ちょうど1年ぶりの増上寺ロケの機会となりました。
今回のミッションは、大本山増上寺「御忌大会」における、横濱・大光院第6世住職【宮林雄彦上人】の唱導師という晴れ舞台に立ち会い、一世一代の法要と祝宴の様子を撮影すること+諸々。
【初日:4月4日/引出物準備】
創業間もない2023年秋から何度も打ち合わせを重ね、地道に制作を進めてきた記念品たち(入浴剤/日めくりカレンダー/三つ折りパンフレット)の袋詰め作業に参加。本番である翌日のゲストの方々へ滞りなく配布されるよう、宮林住職にご縁のある僧侶や仏具・法衣店の方々と共に準備を行いました。
到着後すぐから慌ただしい現場だったこともあり、インナーに仕込んでいった「大光院オリジナルロゴTシャツ」のお披露目は、ひとまず断念…。
【2日目:4月5日/宮林住職の御忌大会唱導師 法要】
そもそも「御忌大会」とは、浄土宗の総本山・大本山を中心に勤められる、1212年に80歳で極楽へと旅立った法然上人の遺徳を偲ぶ法要のこと。数えること、今年で「813回忌」となります。
しかも今年は、法然上人が浄土宗を開かれて「850年」という節目の年。例年以上に規模も大きく、この特別な年に法要を勤める「唱導師」は、東日本の浄土宗寺院から選ばれた“重鎮”ばかりです。
東京の大都会に門を構える増上寺の御忌大会は、満開の桜の如く特に華やかで、その様子は最初から最後まで絢爛豪華。練行列や庭儀式が行われる参道・大殿前も、厳かな法要が繰り広げられる堂内も、宮林住職の晴れ舞台のために集まった僧侶や檀信徒で埋め尽くされます。
現場に居合わせた橋田・日髙の2人は、それぞれ異なる特性のレンズを付けた一眼レフカメラ(CANON)を持ち、大光院サコッシュを肩にかけ、約90分間の法要の一部始終を撮影し、次の任務に備えました。
【2日目:4月5日/祝宴前の「撮って出しスライドショー」制作】
さて、我々の任務は、法要の写真を撮ってからがホントの本番。増上寺のすぐ横に建つ祝宴会場「東京プリンスホテル」へそそくさと移動しました。
撮って間もない2台のカメラの膨大な写真データをパソコンに取り込み、一部始終をダイジェストで紹介できる良質な素材だけを超速セレクト。法要終了からわずか1時間30分後に開宴する祝宴で放映するための「撮って出しスライドショー」の準備です。
だだっ広い宴会場の端っこにテーブルを用意してもらい、時間軸が前後しないように2台のカメラの素材をズラリと並べ、一気にレタッチ。データを書き出す頃には、開場時間を迎えてぞろぞろとゲストがやってくる中、PAの方へデータ納品。これまさに「怒涛」。あとは、香盤表に沿った良きタイミングで無事に放映されることを祈るのみ…。
【2日目:4月5日/宮林住職の御忌大会唱導師 祝宴】
東京プリンスホテル「鳳凰の間」に集まったゲストは総勢450名。スライドショーの動画を作成・納品してから間髪入れず、そんじょそこらの結婚式の披露宴とは比べ物にならない人数の“宴”の撮影(日髙)と運営補助(橋田)も担当しました。
浄土宗の宗議会議長を務め、横濱のJCやロータリークラブで経験を積んできた宮林住職の人脈の広さとやら、それはそれはものすごく…。端から端までを1枚の写真に収めることはできないほどの大宴会が催されました。
当日、運営に携わったプロデューサー、司会の大役を務めた浄土宗の社会部部長の橋渡しをしながら、次のコンテンツへの段取りを住職へ伝えつつ、滞りなく宴もたけなわになるまで3時間。終わってみれば、これほど1日が早く感じた日も記憶にないほどの「怒涛」。
その日の晩は宿舎で2人、撮って出しムービーの出来栄えを改めて鑑賞しながら、コンビニで買った「とろろ蕎麦」と「缶チューハイ」を口にする体力しか残っていませんでした。
※ 祝宴後、ラフな作務衣にお着替えされた宮林住職が、事前にプレゼントしていた「大光院Tシャツ」をこっそり着用してくれていたこと、心温まりました。
【3日目:4月6日/明くる朝、ホテルに鳴った1本の電話】
宮林住職の晴れの日に立ち会い、撮影を始めとするミッションを終えた翌朝は、ゆっくり大阪へ帰るのみ。そう思っていました。
宿泊していたホテルで身支度をしていた頃、見ず知らずの番号から着信が…。
土曜日の朝の着信とあり“なにごとか”と恐る恐る出てみると、電話の相手は、高校時代の野球部の1個上の先輩でした。
先輩「もしもし、◯◯だけど、宮津高校野球部の◯◯です。橋田よね?橋田、今どこにおるん?」
橋田「え、あーーー。◯◯さんですか。お久しぶりです。今は大阪に住んでますが、今日は東京に出張中でして。どうされましたか?」
先輩「朝から、親父さんにアンテナ工事に来てもらってたんだけどな、うちのベランダで工事してる時に脚立から落ちはって」
橋田「え、今の話ですか?」
先輩「そう。左腕が上がらん言うてはってな、意識はあるし頭は打ってはらへんねんけど。救急車呼んで今から病院へ行きはるんやわ」
橋田「えー。ちゃんと受け身取れんかったんですか。田舎にいる、母親には連絡つながらないですかね?」
先輩「それが繋がらんくて。親父に息子の連絡先は知らんのか言われてな。お母さんに連絡できる?」
橋田「もちろんできますけど、すぐに出るかどうかはなんとも言えないです」
先輩「ごめんやけど、一回かけてみてくれる。親父さん、救急車で行きはったけど、橋田電気の軽トラがうちに残っててな」
橋田「それは申し訳ないです。軽トラを実家まで誰かが運転しないといけないんですね。一回、オカンに連絡してみます」
先輩「頼むわ。橋田が宮津に帰ってきてるならと思ったけど、そもそも大阪に住んでるなら無理やな。とりあえず親父さん、多分、折れた言うてはったわ」
橋田「しかし、どんな高さから落ちたんですか?利き腕じゃないなら不幸中の幸いですけど…。とりあえず、母親に連絡してみます」
先輩「屋根に上がろうしはって4,5段登ったところで脚立がズレてバランス崩しはってな。とにかく、頭は大丈夫なんやけど、橋田電気までこの車どうしようって…」
橋田「ホンマに申し訳ないです。ちょっと急ぎ、オカンに連絡入れてみます。ただ、最悪、◯◯さんに軽トラを運転してもらわないとどうにもならないかもです」
先輩「弟も妹もこっちにいないならそうせざるを得ないかもな。その時はなんとかするから、申し訳ないけど、連絡、頼むわ」
橋田「はい。承知しました!親父がお騒がせしてすみません」
てなことで、4月6日の朝方、丹後の宮津で電気屋を営む親父が、脚立から落ちて左腕をキレイに骨折したとのこと。
この怒涛の出張を締めくくるのは、宮林住職と同世代の田舎の父親の「左腕やって、救急車」の一報でした。
その数週間後、見事なまでに真っ二つに折れたレントゲン写真を素材に、記念のTシャツとタオルが完成。
手術でボルトを入れてサイボーグと化した父親は、術後の定期検診とリハビリに、そのシャツとタオルを主治医に見せびらかしているのであります。
改めて思う。仕事もそう。骨は、誰かのために折ろう。
私は、私たちは、「誰かのために、骨を折りたい」。そう、そう、そうありたい。
〈文:橋田 耕介〉